
山号額です。本堂の入り口に掲げられています「伸彰者」と書いてあります。
(久成寺縁起誌より) |
富士山と久成寺
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トップページの写真です。この写真は現在撮影できません。久成寺境内地、総門横に火の見櫓があり撤去(平成5年頃)する直前に撮影した写真です。後ろに雄大な富士山がそびえ、お気に入りの写真です。 |

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枝垂れ桜
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本堂前のしだれ桜は通称「暁の桜」といい、寛文12年(1673年)より、毎年咲き続けています。樹齢333年(平成18年現在)。開花時期は、例年4月中旬。腐食により皮のみで生きています。花は小降りですが、一度見ると生命の素晴らしさを感じさせられます。必見です。 |
本堂
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鉄骨造平屋建。銅板葺329.86㎡
宗祖750年慶讃事業にて新築で、昭和57年3月に落成式を執り行いました。その当時では珍しくお客様は皆、椅子席で画期的な本堂でした。現在も客人は、椅子席によりお参りしやすい環境です。 |

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手洗い舎
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7.29㎡の建物です。平成4年に篤信者により奉納。
水は、地下80メートより沸き出る富士山の流水。 |
石仏
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愛らしいこの石仏は
「仲良し」と「おしくらまんじゅう」です。
「仲良し」は、客殿入り口にてお客さんを愛らしく迎えます。また、「おしくらまんじゅう」は、本堂前遊具そばにて、境内で遊ぶ子供達を見守っています。
(立教開宗750年、久成寺開創660年の記念に設置) |
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仏足石 |
お釈迦様の足。 |
山門
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35.40㎡の建物で、昭和64年当山開創650年記念として総代黒崎光、よしの御夫妻の篤信にて建立。旧山門は、(1772)12月22日建立で四足門でした。 |

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総門
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両脇に題目塔が建っています。写真左側の題目塔の横に平成5年頃まで火のみ櫓がありました。
昔は、総門から山門をくぐり本堂にお参りしていました。 |
鐘楼堂
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木造銅板葺。10.56㎡の建物です。大正12年の関東大震災の時に倒れ倒れてしまいましたが再建。しかし昭和29年に火災にあい焼失。現在の鐘楼堂はこのときに新築されたものです。
梵鐘は、第二次世界大戦の際に「昭和17年6月に県下の市町村に対し『寺院教会等ニ対スル金属類特別回収実施要綱』の示達。旧梵鐘は翌年2月に檀信徒に見守られながら供出により寺を後にした。現在の梵鐘は2尺9寸(約88㎝)昭和30年京都の三和梵鐘製作所製造。 |

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神明社
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番神堂(スイシャク堂)・八幡大菩薩、天照太神、春日大明神を奉安。 |
鬼子母神堂
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鬼子母神には鬼の形相の姿と子供を抱いた鬼子母神の2種類ありますが、久成寺の鬼子母神さんは、子安鬼子母神さんです。。
子宝祈願や安産、子供の健やかな成長を願い参拝者が遠方より訪れています。他に弁財天等も奉安。 |
 
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(ふじわらみつちかきょう)
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藤原光親卿の墓所です。篭坂峠にて承久三年(1221)「承久の変」に関わり処刑された。承久の変とは、後鳥羽上皇が鎌倉幕府の執権北条義時のわがままな政治に怒り義時の追討を計画したところ情報が幕府に漏れ藤原光親卿ほか公家五人はそれぞれの北条方の武将に預けられた。甲斐の国の武田五郎信光に預けられた光親卿は京都より現在の駿東郡小山町籠坂峠にて7月12日信光は馬を止め「卿、最後の時が来たと」処刑の時が来た事を知らせた。(行年46歳)その時立ち会ったのが久成寺の前進である普両庵の住職であった。光親卿は僧に頭髪を剃ってもらい教典を開き唱えながら首を差し伸べたのです。
藤原光親俑の墓所、位牌は、普両庵の時代より守り続けています。(久成寺縁起誌より抜粋) |
久成寺 檀信徒会館
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219.27㎡
総門横にある檀信徒会館は、葬儀、法事の会食、展示会、地域活動の支援の場として幅広く檀家、信者その他の団体にご利用していただいております。
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